「(略)日本中央競馬会の広報誌『優駿』1977年7月号に以下のような話が掲載されている(要約)。
権太郎が札幌の宿の帳場で新聞を読んでいると、大阪への長距離電話を掛けている男がいた。漏れ聞く内容から察するに馬の売買の話であったが、優良軍馬が300-400円という時代に、男は1万円、1万2000円という途方もない金額を口にしていた。男が話を終えた後、権太郎は馬生産者と名乗った上でその内容を尋ねると、男は札幌競馬場で調教師をしている稗田虎伊と名乗り、馬主とサラブレッド競走馬の取引について話をしていたのだと語った。サラブレッドという品種を知らなかった権太郎に対し、稗田は「世界で最も優秀な馬」だと力説し、もしも生産する意志があるなら馬を斡旋すると申し出た。これを聞いた権太郎は「どうせ馬を作るなら最高のものを」と決意、のちに追風(父パーナムビュコー、母レスリーカーター)、第二フェアペギー(同インタグリオー、フェアペギー)、プレヴァンス(同コイワヰ、第二プロポンチス)という牝馬3頭が持ち込まれ、吉田牧場のサラブレッド生産が始まった。」(wikipedia「吉田牧場(北海道)」より)
ここに出てくる稗田虎伊という人物は、雨龍の曽祖父に当たる人物で、テンポイントの吉田牧場創業者、吉田権太郎にサラブレッドの生産を勧めたのが我がご先祖だったとは。
吉田牧場は、軽種馬生産者として日本で最も歴史ある牧場の一つに数えられており、もしこのとき二人が出会わなかったとしたら、我が国の競馬史は変わっていたかもしれない。
吉田権太郎氏は、社台ファーム創業者吉田善哉氏の祖父、吉田善太郎氏の弟で、善哉氏の父、善助氏がサラブレッド生産を始めたのは権太郎氏の影響といわれており、善助氏がサラブレッドの生産をしていなかったら、今日に社台ファームは...と考えだしたら、このときの二人の出会いの幸運に感謝したいと身びいきに感じている。