その3 イギリス競馬発展の基礎的条件
前回、その3では「Wikipedia「ブリテンの先史時代」の記述に沿って、紀元前2600年ころブリテン島に到達したビーカー人(ケルト人)について紹介することにする」と書いたが、時代を遡ると本稿のテーマから離れていくことになるのでやめることにした。
タイトルは重々しく(笑)
近代競馬発生以前
前にも書いたように、農耕民族であるアングロ・サクソン人は競走用の軽種馬には関心が薄かった。
さらに、イングランドを征服し、現在のエリザベス女王へと続くノルマン王朝を作ったノルマン人も北方系ゲルマン人、いわゆるヴァイキングの末裔であるから、馬への関心は薄かったと思われる。
イングランドで最初に行われた「競馬」はローマの属領時代。西暦210年のことで、ヨークシャーのウェザビー行われた。これは、ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスがこの国に持ちこんだアラブ種の軍馬によって競われたものである。
ローマ軍の戦闘形態が歩兵による白兵戦ではなく、騎馬戦中心だったことで、馬への関心は非常に高かったことは容易に想像がつく。
それと、元々騎馬民族であるケルト人の嗜好というか生活上の要請とがあいまって、この地と競馬との良好な関係が基礎づけられたのではないかと考えられる(もちろんローマ人とケルト人との関係が良好なものであったとはいえないが。イケニ族は女王ボアゲッティアを先頭に勇敢に戦い果てたといわれる。もっとも逆にローマ軍に帰順し、共に他のケルト部族と戦ったという見解もあるようだが...)
そして、イングランドにおける馬産・軍馬育成が大きく進展した理由として挙げられるのが十字軍遠征である(この項については次回)。
ここで、参考文献をあげておく。
青山吉信・今井宏編「概説イギリス史:有斐閣」
山野浩一著「伝説の名馬1~4:中央競馬ピーアール・センタ」
山本雅男著「ダービー卿のイギリス:PHP研究所」
ウキペディアの各項目
一口メモ① ノルマンディー公国
ノルマン朝の母国、ノルマンディー公国は、とっくの昔に消滅したものと思っていたのだが、どっこい生き残っていた。英国海峡上に浮かぶチャンネル諸島がそれで、英国領ではなく、王室属領としてノルマンディー公国を構成している。現在は英国女王エリザベス2世がノルマンディー公の後継者として、これらの地域の領主となっている。連合王国には所属せず、外交、防衛については、イギリスが責任を追うが、自らの憲法と法律を有しており連合王国の法律は原則として適用されない。
(どうもヨーロッパ史は日本史と比べると複雑だ)
一口メモ② ダービー卿
ダービーの創設者は第12代ダービー伯爵であるが、この爵位は1485年にトマス・スタンリーに対して叙位され、現在までスタンリー家が保持している。
このスタンリー家はかの地の貴族社会の中でも名門中の名門である。
スタンリー家はウィリアム征服王とともにイングランドへ渡った Adam de Aldithley の子孫であり、代々ランカシャー州の領主を務めた家柄である。また、オートバイレースで有名なグレートブリテン島とアイルランドに囲まれたアイリッシュ海の中央に位置するマン島の領主でもあった。1405年、ヘンリー4世はジョン・スタンリー(初代スタンリー男爵)に「マン島王」の称号と領主権を与え、以後スタンリー家(のちのダービー伯爵家)が、中断を含みつつも18世紀初頭まで島の領主を務めた。1765年、当時のマン島領主は封建的諸権利をイギリスに売却し、マン島は王室属領となった。以後、「マン島領主」(Lord of Mann)の称号は連合王国の君主が併せ持つこととなった。
一口メモ③ 王室属領とは
すでに紹介したように、チャンネル諸島(ノルマンディ公国)とマン島の2カ所が王室属領とされている。
イギリスの王室属領は、国家としてのイギリスに属するのではなくイギリス国王に属する高度な自治権を持った地域である。伝統的に国王が王国外に有していた領地であるため、イギリス(連合王国、United Kingdom)には含まれず、それぞれ独自の憲法の下で政府を持っている。ただし、外交・防衛についてはイギリス政府が責任を負う。
王室属領と連合王国との関係は「互いに敬意と支持のある関係、すなわちパートナーシップ」であるとされる。